酔いどれ日記8

今日は、白ワインのシャブリを飲んでいる。すごく冷えているんで喉ごしはいいんだけど、この酸っぱさはやっぱりちょっと苦手だ。

エアロバイクをこぎながらの読書は、村上春樹については一冊読み切ったので一段落し、また数学書に戻った。今日は数理論理学の専門書、田中一之『数の体系と超準モデル』裳華房を再読していた。チューリング・マシンについて復習したいからだ。復習したい理由は別の機会に書く。

この本の、オートマトンの初歩の例の中に、「3の倍数を2進法で表した数だけを受理するオートマトン」というのが出てくる。前に勉強したときは、「ふ~ん」という感じに読み飛ばしたんだけど、今回は気になって証明を考えてみた。(本には証明は書いてない)。通勤の電車の中で考えて、少し時間がかかったけど、うまくできたときはちょっと嬉しかった。わかってみると、非常に巧妙にできたオートマトンだ。(昔のエントリー、オートマトンの食べ方も参照のこと)

 さて今日は、昔に大学祭で観たライブについて書こうと思う。「フォークの神様」と呼ばれた岡林信康さんのライブだ。

このライブを観たのは、入学した年の五月祭だった。記憶では、キャンパスにテントを作り、その中にステージがあったように思う。岡林は、ぼくらより一世代上の人たちが崇拝するシンガーだった。学生運動の象徴とも言える人。反戦歌とか、差別問題を扱った歌とか、革命を願望する歌とかを作った。

 岡林の歌を初めて知ったのは、中学生のときだったと思う(ひょっとすると小学生だったかもしれない)。(どっちにしても)音楽の先生が若い新任の女性で、「友よ」という曲の歌詞をガリ版刷りで配って、生徒たちに歌わせた。そのときには、これが社会変革を求める反体制の歌だとはみじんも思わなかった。(それにしても、なんで彼女はこんな曲を取り上げたんだろうか)

その後、友人の家でレコードを聴かされ、とりわけ、「山谷ブルース」という日雇い労働者の悲哀を描いた歌とか、「手紙」「チューリップのアップリケ」など部落差別を扱った歌を知って衝撃を受けた。

 でも、五月祭のときのライブで岡林が歌ったのは、「転向後」の曲ばかりだった。彼はあるとき、シンガー生活を投げ出して、「下痢を治しに行ってきます」という書き置きを残して、山にこもり、農業をすることになった。しばらくして、復帰し、アルバムを作ったが、人が変わったように昔の面影はなかった。演歌にシンパシーを持ったみたいだった。だから、五月祭のライブでは、彼は、反体制の歌も、革命の歌も、一切歌わなかった。

 岡林の曲で、一番歌詞がすごいと思ったのは、初期の曲「私たちの望むものは」だった。この曲は、「私たちの望むものは~ではなく、私たちの望むものは~なのだ」と「~」のところを入れ替えながら繰り返される歌詞である。例えば、「私たちの望むものは生きる苦しみではなく、私たちの望むものは生きる喜びなのだ」から始まり、「私たちの望むものは社会のための私たちではなく、私たちの望むものは私たちのための社会なのだ」と続き、「私たちの望むものはあなたを殺すことではなく、私たちの望むものはあなたと生きることなのだ」と展開していく。そして、鳥肌が立つのは、後半、歌詞が逆転していくところだ。どきっとなる歌詞だ。

 面白いことに、(そう言っていいかどうかわからないんだけど)、アルバムのサポートバンドをやったのは、デビューしたての「ハッピーエンド」だった。ハッピーエンドは、細野晴臣大瀧詠一松本隆鈴木茂から成るすごいバンドだ。後に、日本のロックの一時代を作り上げたと言っていい人たちである。はっきり言ってしまえば、岡林よりずっと高い音楽性を備えた人たちだった。そして、(たぶん)、彼らは学生運動とはあまり関わりがない。その彼らが、岡林のサポートをやっていたというのは、なんとも奇妙というか、時代のなせる奇遇というしかないと思う。

 ぼくは、岡林の曲をギターで弾き語りがしたくなり、コード譜付きのスコアを買った。そのスコアには、スコアとして非常に珍しいことに、巻頭に詩が掲載されていた。岡林作の詩ならわかるのだがそうではなかった。

 その巻頭の詩は、芥川龍之介のものだった。ネットで調べたところ、『或阿呆の一生』三十三 「英雄」が出典で、「レーニン」をモチーフにしたものらしい。

 

 

 

 

酔いどれ日記7

今日は、赤ワインを飲んでる。カオール。安いけど、なかなか美味しい。コスパで考えるとかなりいい。

今夜は、大学1年生の頃の一般教養の講義の話を書こうと思う。

一般教養の講義として何を履修したか、今となっては定かな記憶ではないが、東洋史、論理学、法学、近代経済学だったような気がする。どれも、大教室の講義で、どれもあんまり出席しなかった。教室に遅刻していくので、後ろのほうの席しか空いておらず、たいてい最後列に座った。

最後列なので、教員の視界には入らないだろう、ということで、ほとんど推理小説を読んでいた。それも、暇じゃないと読めないような大部の小説だった。四代奇書と呼ばれる推理小説を選んだ。中井英夫『虚無への供物』夢野久作ドグラ・マグラ小栗虫太郎黒死館殺人事件久生十蘭『魔都』だ。

これらの奇書は、浪人して予備校に通ってた頃に知った。予備校で親しくなった人がミステリー狂で、彼から推理雑誌幻影城を教えてもらった。当時の『幻影城』には、泡坂妻夫さん、連城三紀彦さん、竹本健治さんなどがデビューしており、新本格派というか変格派というか、そういうミステリーを知ることになった。彼から聞いて、四代奇書を知ったが、これらはみんな大作なので、浪人時代には封印し、「大学に合格したら読もう」と誓ったのだった。

だから、大学に入学して晴れて読み始めた。一般教養の講義の最後列で。

『虚無への供物』は、衝撃の超傑作だった。もう、講義が耳には入らないほどにのめりこんでしまい、帰宅してから一気に読んで、涙を流し、翌日は大学に行かなかった。翌日だけじゃなく、数日休んだかもしれない。

ハウ・ダニエットとしてもフー・ダニエットとしても優れているが、驚天動地なのは、ホワイ・ダニエットとしての推理小説だということだ。古今東西、こんな「動機」を考えついた推理作家がいただろうか。ここに来て、「虚無への供物」というタイトルの深い意味が飲み込めて感涙になる。

テレビドラマ『虚無への供物』も一応観たのだけど、深津絵里さんが主役をやっていてなかなかだったんだけど、ドラマ自体は原作を体現できてはいなかったと思う。まあ、やろうとしただけで立派だったとは言えるが。

調子にのって次に読んだのは、ドグラ・マグラだった。これもとんでもない小説であり、推理小説と呼べるのかどうかもわからない。この小説の真骨頂はやはり、「小説中小説」という仕掛けによって、「無限」を創出していることだろう。この点については、拙著『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫で、ホルヘ・ルイス・ボルヘスアレフとともに論じているので、是非、読んでほしい。ボルヘスは、数学的な小説を多く書いた、というか、どの小説も数学的であることで有名な作家である。

黒死館殺人事件は、本当に物語の内容がわからなかった。講義中に読んでるから集中できなくてわからないのか?と思って、講義を休んで家で読んでみたが、相変わらず、さっぱりわからなかった。一文一文は意味が通るのだが、つなげると何を言っているのかさっぱりわからない。でも、それでも非常に魅力的で、結局、最後まで読んでしまった。小説の中では「意外な犯人」と主張されているのだが、何が意外なのか、理解できなかった。とは言え、この小説には悪魔的な魅力があり、四冊のうち、今もう一度読むとしたら、この黒死館殺人事件だろうと思う。いつか、再チャレンジするつもり。

『魔都』を最後に読んだのだけど、講談調の語り口調で、最も読みやすく、最もわかりやすく、ものすごく上手な小説であるが、四冊の中では最もインパクトが薄かった。

 一般教養の講義で最も思い出深かったのは、東洋史だった。左翼系の東洋史家の先生で、話がすごく巧かった。余談も多く、興味深い内容だった。ひとつ覚えているのは、「革命前の中国がいかに貧富の差がひどかったか」という話だった。庶民にとって塩が稀少財だったため、鍋のスープを全部飲まず、乾かして塩を抽出して再利用している一方、王は、好きな時間に命じて、好きな料理をいくらでも即座に作らせることができたという。「そんな貧富の差があれば革命が起きるのは当然だ」と先生は断じた。

ところが、何回か休んでいるうちに、なぜか途中で教室変更になり、久しぶりに行ったら教室はがらんどうだった。トンチキなぼくは、変更先の教室を発見するすべがなく、結局そのあと一度も出席しなかった。

 期末テストになったとき、ほとんど諦念の気持ちで教室に入った。驚いたことに教室には先生の姿はなく、すべての席に問題用紙が一枚ずつ置かれていた。空いている席について、問題文を見ると、「あなたとアジアについて、その関わりについて書きなさい」とだけあった。問題文を読んでぼくは「どうしたものか」と思案に暮れた。「あなたとアジア」というテーマに、ある種の書くべき指針を先生は講義中に示したのかもしれない。だとすれば、休み続けたぼくには何も書けない。どうしよう。

でもぼくは、どうせ受験に来たのだから、ダメ元で何か書いて行こうと考えた。

 ぼくとアジアの関わり??ぼくは回顧をめぐらせた。正直に書くとすれば、それは在日の人々との関係になるだろう。ぼくが少年時代を過ごした地域には、在日韓国人の人々や在日北朝鮮の人々がかなりいた。だから、友達にも少なくなかったし、睨みをきかせて敵対してくる近所の子供もいた。ぼくにとって、在日の人々は日常的な存在であり、子供ながらに何かを感じざるを得ない存在でもあった。

ぼくは、解答用紙に、そんな前置きを書いた上で、丸山薫の詩を引用することにした。その題名も「朝鮮」という名の詩だった。

それはこんな詩だ。姫が魔物に追われて逃げている。彼女が逃げながら、櫛を投げるとそれが山になって魔物を遮る。魔物は乗り越えて追ってくるので、今度は巾着を投げる。巾着は池に変わり、魔物の邪魔をする。けれど魔物は苦も無く乗り越える。それで、姫は靴を投げる。こんなふうに姫は身につけているものを次々に投げていく。ぼくは、この姫の姿が朝鮮の姿だ、と答案に書いた。

ぼくは書きたいことを正面から書いたけれど、単位を取るのは諦めていた。でも、意外にも、合格して単位をいただいた。しかも、最優秀のAという成績だった。なんとも言えずこそばゆい気持ちになった。

もちろん、その先生がどの答案も読まず、全員にAを付けた可能性も否めない。なぜなら、翌年にその講義をとった友人が、「`仏'だと聞いたから履修したのに、たくさんのD(不合格、学生はドラと呼んでいた)を出し、撃墜された」と言ってたからだ。その年は定年で退官する最後の年だったから、置き土産のつもりだったのだろう。とすれば、単にぼくにはツキがあっただけなのかもしれない。

 

 

 

 

酔いどれ日記6

 今日は残っていたリースリングを1杯飲んで、赤にシフト。ボーヌロマネ2018。勤務先の近くのワインショップが1割引き券をくれたので、思い切って買った。懇意にしてる店員さんのお勧めなのもあって。ぼくにはワインの知識も自信もほとんどないので、基本的に信頼できる店員さんの勧めてくれるものを購入する。行くたびに、このあいだのは美味しかった、とか、コスパは良かったね、とか、すっぱかった、とか匂いが良かったとか伝え続けると、自然とぼくの好みを把握して勧めてくれるようになってくれる。決して、高いワインを売りつけようとはせず、いろんな価格帯のワインを紹介してくれるから信用できる。

 今は、TK from 凜として時雨のブルーレイをかけながらこれを書いてる。あるときから、男の歌声をうけつけなくなったぼくの体だけど、TKだけはなぜか聴くことができる。

 今夜は、また、村上春樹の小説のことを書こう。

『女のいない男たち』文藝春秋を、3編読み進めた。エアロバイクをこぎながら、一日に一編ずつ読んでいる。『独立器官』『シュエラザード』『木野』の三編を読んだ。

みんな面白いけど、三編を競わせて軍配をあげるなら、やはり、『木野』だな。春樹さんらしい幻想小説だから。

 『独立器官』は、主人公が親しくなる整形外科の開業医の話。いわゆるドン・ファン的な男で、女には(というかセックスには)不自由せず、患者の女性たちとの情事を楽しんでいる。女性たちは独身もいるし、既婚者もいる。その開業医が結局は破滅する物語。それはいい年をして、生まれて初めて恋に落ちてしまうからなんだよね。それもひどくつまらない女に。この小説も非常に緻密に構成されているんだけど、ぼくにはちょっと物足りなさがあった。まあ、これも年の功で、そういう「高齢でかかる麻疹」みたいなのをよく見てきたから。「思い入れだけの恋愛」とか「相手に幻想をかぶせる恋愛」とかは、中高生のうちに済ませておかないといけないんだ。大人になってからだと重症化する。そういう人を身近に数人目撃した。はたで見てると、「ばかなんじゃないの」とさえ思うんだけど、本人は深刻なんだ。そういう麻疹はぼくは中高生で済ませた(酔いどれ日記1参照)

『シュエラザード』は、変な癖(もちろんやばい悪癖)を持った女の話。非常にありそうな話で感心した。その悪癖は、かなり荒唐無稽なんだけど、実話のように書かれている(いや、どっかで聞いた実話なのかもしれないけど)。主人公の男の正体も、悪癖女の素性も最後までぜんぜん判明しないんだけど、それがまた、物語に深みを与えている。

『木野』は、妻の浮気が発覚して退職してバーを始めた男の話。木野は、その主人公の名前だ。前半は、そのバーで起きるできごとが淡々と描写される。店の片隅でウイスキーの水割りを飲みながら本を読む常連客の神田が、大きな伏線となっている。後半は、どんどん幻想的になっていく。最後は、春樹流が炸裂する。物語はどんどん発散していく。

この短編『木野』のテーマを一言で言うのは難しいけど、村上春樹がずっとテーマとしてきている「禍々しいもの」がその一部だろう。あともうひとつ、「正しい選択とは何か」という問題。そういう意味では、初期の短編に通じるものがある。『パン屋再襲撃とか『品川猿』とか『めくらやなぎ、と眠る女』とか。この三編にぼくが何を見ているか、というのは『数学で考える』青土社あるいは『数学的思考の技術』ベスト新書に収録している『暗闇の幾何学で論じているので、それで読んでほしい。この評論は、もともとは、文芸誌『文学界』に寄稿したものだ。このようにぼくの中での村上春樹は一貫したテーマを拡張しながら繰り返し物語にしてる。

 村上春樹とぼくが共有している、と思われるのは(勝手に思っているだけなんだけど)、「地下鉄サリン事件とは何だったのか」ということだ。村上春樹は、この事件を追って、アンダーグラウンド『約束された場所で』というインタビュー集を作った。前者は地下鉄サリン事件の被害者になった人々に、後者はオウム真理教の信者にインタビューしたものだ。ぼくにとって衝撃だったのは、後者だった。オウム真理教の信者たちはインタビューの中で、自分たちの信教(あるいは信念)が絶対に正しいという立場を表明している。そして、それを理解しない一般人(あるいは教徒以外の人々)は単なる低脳人間なんだ、と見下している。しかし、彼らがよりどころにしている麻原彰晃(あるいは松本智津夫)の教義(あるいは理論)は、ぼくら読者には(普通の人間には)さっぱり理解できない。でも彼らは自信満々だ。

ここで立ち塞がるのは「正しさとは何か」ということだ。こう言い換えてもいい、「自分とオウム信者はどこが違うのか」。たしかに、彼らは地下鉄でサリンをまいて人殺しをした。ぼくらはそんなことはしない。でも、だからぼくらは正しいのだろうか?ぼくらは彼らと同じような人殺しをずっとしない保証があるんだろうか。村上春樹も同じ難問を抱えた気がするんだ。「悪とは何か」「正しいとは何か」。これを「社会の内部にいるぼくらが、あたかも外側からするように判断するすべはあるのか?」。それができないなら、ぼくらとサリン事件実行犯たちとを区別することができない。「わたしはわたしがそうでないことを知っている」というのが答えにならないのは言うまでもない。

もちろん、「外側からの回答」は原理的に不可能、絶望的に不可能なのかもしれない、とは思う。でも、だからと言って、逃げてはいけない問いであるとも思うんだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

酔いどれ日記5

 今日はリースリングを2杯目。Zind-Humbrechtとかいうやつ。リースリングにしてはすっきりしている。

 昨日は、キングクリムゾンのライブを渋谷オーチャードホールで観てきた。

ぼくは、新型コロナが起きてから、「もうライブには行くまい」と決めたんだった。だから、今年から5限に講義を入れた。しかし、クリムゾンの来日で決意はもろくも崩れ去ってしまった。

 もう最終公演も終わったので、多少のセトリの話をしても邪魔にはならないだろう。今回のライブは、名曲オンパレードという感じで、「みんな、これが聴きたいんでしょ」という曲の連発だった。前回の来日では、「リザード組曲」を全編演ったり、「船乗りの話」をやったり、マイナーだけどマニアックでかっこいい曲を演奏してくれたけど、今回は本当に代表曲の嵐だった。ファンとしてどちらも嬉しいものだ。

 今回、一番聴き応えがあったのは、「ディシプリン」だった。ギタボの若いプレーヤーがギターの腕をあげたので、「ディシプリン」のずれていくミニマル音楽が非常に綺麗に再現された。とりわけ、トリプル・ドラムと合わさるポリリズムがあまりにかっこよく美しく演奏された。1981年に「ディシプリン」を発表したとき、ボブ・フリップの脳裏には、こういうトリプル・ドラムのリズムが鳴っていたのだろうな、と思うと、とてつもない音感だな、と思う。

 ぼくがクリムゾンのライブに行くのは、ボブ・フリップに会うためだ。もちろん、クリムゾンの音楽はいつ聴いても楽しいが、フリップ卿に会って、自分の座標を確かめるというのが大事なことなのだ。フリップが逝くのが先かぼくが逝くのが先か、否、フリップを見送ってからぼくも逝く、という覚悟。そういう気持ちがぼくの内面に厳然とある。

 ぼくがキング・クリムゾンの音楽と出会ったのは13歳と14歳の間のどこかだったと思う。13歳のぼくは友達の影響で、グランド・ファンク・レイルロードの「孤独の叫び」を買った。ぼくが買った初めてのロックのシングル・レコードだった。それからヒットチャートを聴くようになり、当時ヒットしていたELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)の「ナットロッカー(くるみ割り人形のこと)」が好きになった。それで、ELPの「トリロジー」というアルバムを買った。これがぼくが初めて買ったアルバムだった。ELPグレッグ・レイクに惹かれるあまり、ELPを結成する前にレイクが所属していたキング・クリムゾンに興味を持った。偶然、友人のお兄さん(高校生)が、クリムゾンのライブアルバム「アース・バウンド」を持っていて、それをカセットテープに録音させてもらい、収録されている「21世紀のスキッサイドマン」とか「船乗りの歌」にぞっこんになってしまった。それで、お金をためて、クリムゾンのデビューアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」を買ったんだ。最初は、「アース・バウンド」における「21世紀のスキッサイドマン」と演奏の違いに戸惑ったが、すぐに大好きなアルバムになった。「エピタフ」や「ムーンチャイルド」なども名曲だったからだ。

 それから、結局、活動休止までの7枚のアルバムを全部聴くことになった。すべてのアルバムがすばらしかった。

休止後は、フリップとブライアン・イーノの共作である「ノー・プッシーフッティング」とか、フリッパートロニクスのアルバム「レット・ザ・パワー・フォール」とかソロアルバムの「エクスポージャー」とか、パンクアルバム「リーグ・オブ・ジェントルメン」とか聴きながら、クリムゾンの活動再開を待っていた。

そして、1981年、待ちに待った新クリムゾンのアルバム「ディシプリン」が発表され、しかも!来日公演が行われたんだ。浅草で4日連続で公演を観た。本当に涙にむせんだ毎日だった。その日々のことは以前、こんなふうに書いた(もとはこれ)。

ぼくは、連続4日のクリムゾンのライブに行った。ライブはすばらしいものだった。アルバム「ディシプリン」と「ビート」の真ん中の期間で、名曲「ニール・アンド・ジャック・アンド・ミー」の初期バージョンの演奏がされ、もう涙がむせんだ。ぼくらは、ライブの前に浅草「藪そば」で酒を飲み、終わったあとは「神谷バー」で黒ビールと電気ブランを飲んだ4日間だった。

ああ、この頃も飲んでたね。笑。

フリップは、前から兆候はあったものの、このアルバム「ディシプリン」から、スティーブ・ライヒ流のミニマル・ミュージックに傾倒することになった。表題曲「ディシプリン」はギター2本がリフをユニゾンから徐々にずらしていく曲。高校生だったとき、友人が耳コピして、二人でアコギ2本でチャレンジした。1音ずつずれていくときは気持ちいいのだけど、相手のアルペジオに巻き込まれるともう終わり。大失敗となる。十数回のチャレンジで完璧に出来たときはものすごく嬉しかったものだ。ちなみに、日本のバンドで現在、この方法論を実践しているのは、Tricotだと思う(他にもいるのかもしれないけど)。

 ぼくは13歳か14歳からもう50年もクリムゾンを聴いている。これはすごいことだと思う。そんなバンドは他にはいない。「人生のバンド」とはまさにこのことだ。ぼくの人生の大部分は、クリムゾンとともにある。こんな奇跡的なことがほかにあるだろうか。

 

 

 

酔いどれ日記4

  今日は赤ワインを飲んでる。シャトーヌフ・ドュ・パプを3杯目ぐらい。ぼくが論文を書いている分野にシャトーヌフ先生という大家がおられるので、この名前のワインはいつも拝みながら飲む。

 今日は、ヨルシカのブルーレイ『前世』を観ながら、エアロバイクをこいだ。ヨルシカのこのライブは、水族館で収録したもので、顔をさらさない彼らのライブとしてはとても良いアイデアだと思う。青く幻想的な世界の中での演奏を楽しむことができる。すべての曲がいいけど、とりわけ『言って。』のオープニングには痺れた。suisさんが「言って」と歌いだすまで、この曲だと気づかなかった。みごとなアレンジ。

 エアロバイクをこぐときは、ライブ映像をかけるんだけど、どれも何十回も観たものなので、音だけ聴いて本を読むことが多い。ここ数ヶ月ずっと代数幾何学の専門書ばかり読んできたので、ふと小説が読みたくなって、ここ二回は村上春樹『女のいない男たち』文藝春秋を一編ずつ読んだ。

一編目は『ドライブ・マイ・カー』、二編目は『イエスタディ』。どちらも面白い短編だったけど、『イエスタディ』のほうが好きかな。

『ドライブ・マイ・カー』は、三枚目俳優の主人公が、死んだ妻の不倫について、劇場までの送迎の運転手を務める女性ドライバーに話す物語。非常に細部を緻密に構成した物語だった。酔いどれ日記2に書いた通り、文学は(全部ではないかもしれないけど)非常に緻密な構成で書かれているものだ。この小説もその例に漏れず、お手本のような緻密な物語だった。

主人公が俳優であることが重要な役割を持っているし、その運転手の女性がなぜ運転が上手なのかもみごとに説明される。ただ、ぼくにとって少し残念だったのは、死んだ妻の不倫の理由がなんとなく予想出来てしまったことだった。別に伏線がはられていたわけじゃなく、長く生きてきたから、そんな感じだろうと、感づいてしまったんだね。

他方、『イエスタディ』のほうは手放しで楽しめた。大学生の主人公がバイト先で浪人生の男と友達になる。その浪人生は、東京育ちなのに関西に「語学留学」をしてまで完璧な関西弁を身につけた、というだけでもう爆笑で、その男がビートルズの「イエスタディ」を関西弁の歌詞で歌うオープニングなんか、もう絶妙である。

その関西弁男には、めちゃめちゃ綺麗な大学生の恋人がいる。幼なじみでずっと一緒にきたのに、大学入学のときに別々になってしまったのだ。その男女の恋の顛末に主人公が巻き込まれていくことになる。物語の展開は、村上春樹の常套手段という感じだけど、もともと村上文学のそういうティストが好きなので、十分に堪能できてしまった。

 村上春樹の小説を初めて読んだのは、大学生のときだった。当時の麻雀仲間だった友人の部屋で、ある女の子と一緒になった。その子はたぶん、友人のガールフレンドだったのだろうと思う。ガールフレンドの一人、と言ったほうが正確かもしれない。彼にはそういう子が数人いたらしいから。そのとき友人はなぜか外出しており、ぼくはなんだか、その女の子と彼を待っているはめになった。

沈黙に耐えられなくなったのか、彼女が唐突に「村上春樹の最新の小説を読みました?」とぼくに尋ねた。ぼくは、最近デビューした作家で、村上春樹という人が話題であることは知ってたけど、注目はしてなかった。「いや、読んでないけど、なんで?」とぼくは正直に答えた。そしたら彼女が「そう。わたし、読んで一晩中泣いてしまったんだ」とつぶやいた。

「一晩中泣いた」ということから安易に想像できるのは、「難病もの」のお涙ちょうだいの物語だった。でも、ぼくはなんかそういうたぐいじゃない予感がした。それはその女の子の持っている独特の雰囲気からの「予感」のようなものだった。

家に帰ってから調べると羊をめぐる冒険のことだった。記憶ではまだ単行本化されておらず。彼女は文芸誌『群像』に掲載されたのを読んだのだったと思う。ぼくは決意して村上春樹の小説を読みはじめた。まず、デビュー作『風の歌を聴けを読み、次に当然、続編1973年のピンボールを読み、そして満を持して羊をめぐる冒険を読んだ。

「打ちのめされる」とはこのことだった。こんなにすごい小説を書く若い作家が現れたなんてあまりに衝撃だった。当時はぼくはまだ小説家を目指していたから(鼻で笑いなさんな)、絶望的な気分になった。『羊をめぐる冒険』を読んだときは、一晩中とは言わないけど、感動の涙を流したのは女の子と同じであった。

それ以来、ぼくはできるだけ村上春樹の小説は読むようにしてきた。全部ではないけど、相当読んだ。そして、今も読んでいる。

 映画『風の歌を聴けも観た。この映画にはいろいろな意見があるとは思うが、ぼくはそれなりに評価している。なにより、真行寺君枝さんのフォルムがこの小説に出てくる女の子にぴったりだった。真行寺さんはぼくの好きなタイプの女優だった。「鼠」を演じた巻上公一さんは、ちょっときばりすぎだったと思うけど、こともあろうに「鼠」を演じるんだからしょうがない。巻上さんがリーダーのテクノバンド「ヒカシュー」も、多少聴いていたから、親近感が持てた。

最後に販促をさせてほしい。このブログはそのために書いているから。ぼくの村上春樹文学への批評(というよりはラブレターに近い)は、『数学的思考の技術』ベスト新書にしたためられている。

村上春樹トポロジー

1Q84」はどんな位相空間

暗闇の幾何学

の3章だ。興味がわいたら、是非、手にしてほしい。

 

 

 

 

酔いどれ日記3

昨日休肝日にしたので、今夜は飲んでいる。今、サンセールの白ワインを3杯目。赤ワインに比べて白ワインで好みのものにあたることはあまりないんだけど、サンセールだけはなぜかすごい好きなんだ。高級とかテオワールとかはよくわからないのだけど、この独特な匂いにはうっとりなる。

 さて、今回は、英語の勉強の話をしようと思う。

経済学の道に進んでから最も困ったのが英語だった。専門的な論文はたいてい英語だから、英語を読むのに時間がかかるとなかなか勉強が進まない。進まないとやる気も失せてくる。もっと困るのは、論文を英語で書こうとする場合だ。ほんとにどうやって書いたらいいのか途方に暮れた。

 ぼくの最初の論文は、ある先生の勧めで、財務省の『フィナンシャルレビュー』というジャーナルに投稿することになったんだけど、あとになって要約を英文で提出してほしいという依頼(というか命令)が来て、晴天の霹靂になった。途方に暮れたあげく、仕方ないから論文のイントロを青息吐息で英文化して、同期の英語に堪能な院生に頼んで校正してもらったんだ。そうしたらその人は、「小島さん、正直に言うけど、校正しようのないほどひどい英文なので、自分でやったほうが直すより早いかなと思って、小島さんの日本語の文を最初から自分で英訳しましたよ」と言われてしまい、ありがたいとともに、穴があれば入りたい気持ちになった。

 そんなわけで、英語をどうにかせんと前に進めんと思ったぼくは、師匠の宇沢弘文先生に市民講座で教わっていた頃に、宇沢先生が話してくださったことをふいに思い出したんだ。

宇沢先生は、東大数学科をぷいと退職してしまってフリーターをしていた頃、ケネス・アロー(のちにノーベル経済学賞を受賞することになるすごい経済学者)の論文を読んだ。そして、そこに間違いを発見し、修正の提案をし、さらには一般化した内容を手紙にしたため、アローに送った。それを読んで驚いたアローが、宇沢先生をスタンフォードに招聘した。それから宇沢先生の華麗なる経済学者の道程が始まったわけだ。(この辺の話は、拙著『宇沢弘文の数学』青土社で読んでほしい)。

信じられないことだが、宇沢先生は、スタンフォードに行ったときは英語がぜんぜんできなかったそうだ。本人の言によれば、「アローさん、こんにちわ」さえ通じなかったという。それでアローに「君は経済学はいいから、とにかく英語を身につけなさい」と言われて、いわゆる「おまめ」の立場に置かれたそうな。そんなある日、アローのゼミのみんなが黒板に書かれた微分方程式をめぐって、どうしたものかと思案にくれているとき、宇沢先生が黒板に出ていってその微分方程式を解いてみせた。そうしたらみんな、口をあんぐりと開けて、驚愕の表情になったという。先生は笑いながら曰く「サルが微分方程式を解いたかのような表情だった」と。まあ、先生特有のジョークだと割り引くべきだけど、「サル」と見なされるほどに英語ができなかったのは事実だったんだと思う。

 そんな先生がどうやって英語を身につけたかを、先生が教えてくださったのだ。先生は、英語の小説を読みまくったのだそうだ。子供の絵本から始まって、小学生の読む物語から、中高生の読む小説までむさぼるように読んだのだ。「英語を身につけるには、子供向けの小説を(辞書なしに)読むのが一番いい」というのが先生の持論だった。

 それでぼくも、宇沢先生を見習って、子供向けの小説を英文のまま読んでみることにした。最初にチャレンジしたのは、宇沢先生がすごく好きだったというトールキンホビットの冒険だった。これは正直、十数ページで挫折した。特殊な単語が出過ぎていて、かなり読み進めば理解できるのだろうけど、「知らない英単語なのか、それとも単なるキャラクターの名前なのかがわからない状態」に陥り、とてもじゃないけど読み進めることができなかったからだ。

ホビットの冒険」を断念したあと、もっと易しい物語にしようと思ったぼくは、オズの魔法使いを購入して読み始めた。そうしたら、驚くべきことに、(辞書なしで)最後まで読み通せてしまったのだ!これには我ながら驚いた。英文が易しかったこともあるけど、物語がめちゃめちゃ面白いのでずんずん進むことができたんだ。こんな有名な物語のオチを知らなかったぼくもぼくだが、それだけに、わくわくどきどきのまま、オチに驚愕することになった。(とんでもない小説だった)。

たった一冊だけど、この経験でぼくは勇気百倍になった。「可能なんだ」と知るのは、自信につながる。自信ができれば、コンプレックスが消滅し、前に進むことができる。そのあとからぼくは、自分の専門分野なら、英語の論文を読むことができるようになった。もちろん、大人向けの小説は読めないし、専門から遠い分野の論文も読めないままだけど、専門分野の論文だけはほとんど辞書なしで読めるようになったんだ。なぜなら、専門分野の専門用語は自然に英語で覚えているから、多少知らない英単語があっても大意はつかめるからなのだ。

 宇沢先生は、自分に英語能力がなかったことを悪るびれもせずに語ったあと、ぼくにこんなことを教えてくれた。「小島くん、森嶋の法則、というのがあってね。それは、英語能力と経済学の能力は反比例するというものなんだ」。これを聞いてぼくはめっちゃ楽しい気持ちなった。ここで言う森嶋とは、森嶋道夫先生のことで、LSEの著名な経済学者のことだった。

 『ホビットの冒険』を英語では断念したぼくだったが、とても気になっていたので、『ホビットの冒険』を日本語で読んだあと、同じトールキンの『指輪物語も日本語で読んでみたんだ。これはあまりにすばらしい物語だった。

トールキンは、この物語を自分の言語理論の実践として描いたそうだけど、現在のアドベンチャーゲーム異世界ものの原点となったほど画期的で、孤高の小説だった。それだけではない。普通の凡庸な冒険小説が、「鬼退治」に行ったり、「天下をとり」に行ったり、「魔女を倒しに」行ったり、「お姫さまを救いに」行ったりするのに対し、この物語は「権力の指輪を捨て」に行く、というとてつもない物語なんだよね。並の人間や妖精は、「権力の誘惑に負けて、指輪に操られてしまう」んだけど、何のとりえもないように見えるホビット族だけが「権力の誘惑」に打ち勝てる、という存在なんだね。こんなすごい物語をどうやって思いついたのか、と心底感心する。

たしか宇沢先生から聞いた話だったと思うんだけど、アメリカの反戦運動(たしかベトナム反戦運動だったと記憶しているんだけど)には、学生たちは『ホビットの冒険』を胸ポケットに入れてデモをしたという。(嘘だったら許せ)。

 『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』で感動したぼくは、大学への数学という受験雑誌に「ロード・オブ・ザ・リング(環物語)」という小説を寄稿した。これは、代数学の環(Ring)の魔力にとらわれた受験生がどんどん地獄に落ちていくパロディ小説である(自作ながらうろ覚えなので、多少違うかもしれない)。興味ある人は、『大学への数学』のバックナンバーで是非読んでくれたまえ。

 

 

酔いどれ日記2

今日は酒を抜くつもりだったのだが、ストレスが激しいため予定変更。マルサネの赤ワインをいま、2杯目。

昨日は、約2年ぶりにゼミ生たちとスタジオ入りをした。ぼくのゼミでは、講義とは関係なく、毎年ゼミライブというのをやっていた。音楽サークル系のゼミ生がバンドを組んで演奏し、ゼミ生が歌う。ぼくも数曲、ギタボで参加する。

去年がちょうどゼミライブ10周年にあたるのだが、新型コロナでやむなくオンラインで実施。ぼくは演奏しなかった。新型コロナが沈静化したので、やっとスタ練に入ることができた。ぼくは、エルレガーデンの「ジターバグ」「金星」の演奏にギタボで参加した。どちらもすばらしい曲だ。

エルレガーデンを好きになったときは、彼らが活動停止を決めてからだった。だから、なんとかライブを観たいと奔走したが、さすがにチケットが手に入らなかった。でも、アジカン主催のフェスに彼らが参加したため、横浜アリーナで彼らのライブ(最後に近いライブ)を観ることができた。あまりのすばらしい演奏に、感涙むせんだのを今でも覚えている。

 さて、今夜は、高校時代の国語の先生の思い出を書こうと思う。

中学時代は数学が最も好きな科目だったが、高校時代は現国が最も好きな科目だった。中学時代に数学が好きだったのは、数学の先生が数学科の大学院にまで行った若い先生だったので、その情熱に飲み込まれたからだ。その先生のおかげでぼくは、「素数マニア」になり、今年素数ほどステキな数はない』技術評論社という本まで上梓することとなった。その先生のことはこの本のあとがきで読んでほしい。しかし、高校時代には、数学の先生と感覚が合わなかった。もちろん、数学を教える能力は高かったけど、数学の不思議さ・深遠さとは縁遠い人たちだったからだ。

それに比べて、現国の先生には血気盛んな人が存在した。O先生はそんな人だった。例えば、芥川龍之介の「羅生門」を扱ったときは、B4のプリント2、3枚にびっしりと「問い」が書いてあった。小説の数行にひとつは問いがなされている体だった。あたかもソシュールのごときだった。

あるとき、その先生が高橋和巳の小説を薦めたので、生徒は誰もが読むものだと思ったぼくは一冊読んで、O先生に報告に行った。驚いたことに、読んだのはどうもぼく一人だったようだった。先生はよほど嬉しかったと見え、放課後に喫茶店につれていってくださり、長時間語りあってくださった。先生はたぶん『邪宗門』を読んでほしかったと思うのだが、へそまがりのぼくは『我が心石にあらず』を読んだのだ。この小説は、(高橋和巳の小説は常にそうだが)、インテリのひ弱さ、脆弱さ、そして虚偽を描いていた。『我が心石にあらず』では、主人公のインテリが不倫する女性が、最初は魅力的なのにだんだん醜さを露呈していくプロセスが(高校生ながら)たまらなかった。そんな話をぼくはO先生にいきって話したような記憶がある。

またまたあるとき、O先生は現代短歌について、生徒ひとりひとりに歌をひとつずつ担当させ、生徒なりの解釈を発表させる、という講義を行った。ぼくは、(たしか)塚本邦雄という人の歌、

鞦韆に揺れをり今宵少年のなににめざめし重たきからだ」

という歌を割り当てられた。鞦韆は「しゅうせん」と読むが、いわゆる「ブランコ」のことである。

何度読んでも、背後の意図をつかめなかったぼくは、ちょうど中学のときの数学の先生に会う予定があったので、その先生にこの歌をもちかけた。その数学の先生は文学にも強い興味を持っていらしたからだった。その先生は、「鞦韆が、終戦にかけており」、「重たきからだは、敗戦に対するものだろう」と解釈した。ぼくは、めちゃめちゃ「なるほど」と思った。 

それで、O先生の前で、意気揚々とその解釈を披露した。ところがO先生は、すこしひきつった笑みを浮かべて、「全く違う」と断じた。そうしてこのような解釈を披露した。「小島ね、少年が目覚めると言えばなんだ。わからんか? 性に対してに決まってるだろう」と。

ぼくは一瞬、あんぐりとなったが、その一方で数学の別解を知ったときの快感のようなものが脳を走り抜けるのも感じた。O先生の解釈が正しいのかはいまだにわからないが、ただ、その解釈に「文学的価値」があることは今ならわかる。文学の多くの部分は、「性」で成り立っているからだ。

O先生の現国には、結局、ぼくは大きな影響を受けたと思う。小説や詩や歌は、ただの感覚的や雰囲気だけで創作されているのではなく、数学のような緻密さ・厳密さで生み出されているのだ(かもしれないな)と悟ったからだ。

O先生は、ぼくらが卒業してから数年後、40代で急逝したことを人づてに知った。癌を患ったとのこと。教わっていた当時から虚弱な感じはしていたが、早すぎる、そして惜しすぎる死であったと思う。もっといろいろ教わりたかった。