素数の分布になぜ偏りがあるのか?

 今回のエントリーは、今年最後ということで、数学のことをを書こう。テーマは、「素数の分布に偏りが見られる理由」である。

 ディリクレの研究によって、素数を「割った余り」で分類しても、極限で見るかぎり、その割合はみな同じであることがわかっている。

例えば、素数を末尾で分類する(10で割った余りで分類する)と、2と5を除けば、どの素数も末尾は1, 3, 7, 9のいずれかだ。そして、x以下の末尾1の素数の割合、x以下の末尾3の素数の割合、x以下の末尾7の素数の割合、x以下の末尾9の素数の割合は、xを無限に近づけるとき、みな1/4に近づく(均等に近づく)のである。これを「ディリクレの算術級数定理」と呼ぶ。(どの末尾の素数についても無限個存在する、という証明は拙著素数ほどステキな数はない』技術評論社を参照のこと)

このことは数値計算でも見てとれる。実際、100000000番目までの素数を分類すると、末尾1は24999437個、末尾3は25000135個、末尾7は25000401個、末尾9は25000027個となっており、ほぼ4分の1ずつの均等になっている。他方、連続する素数(隣り合う素数)の末尾の組で分類してみると、見逃せない偏りがあることがOliver&Soundrarajanの論文で報告されている。これについては省略するので、詳しくは、素数ほどステキな数はない』技術評論社を参照してほしい。

しかし、今回紹介するのは、Oliver&Soundrarajanの偏りではなく、「チェビシェフの偏り」と呼ばれるものである。ぼくはこれを知らず、小山信也先生のyoutubeでの講演動画、「チェビシェフの偏り」の解明と一般化、で初めて知った。

「チェビシェフの偏り」とは、19世紀の数学者チェビシェフが見つけたもの。例えば、x以下において、4で割った余りが3の素数のほうが、余り1の素数よりたいてい多い、という現象のことだ。講演によれば、26861未満では常に余り3の個数の方が余り1の個数以上であり、26861で初めて逆転するが、その後すぐにまた余り3の個数の方が多くなり、それが長く続くのである。

この「チェビシェフの偏り」は、「ディリクレの算術級数定理」と食い違っているように見えるが、そうではない、というのが、小山先生と共著者の最新の発見なのである。小山先生によれば、それは「リーマン予想」から説明できる、という。

 「リーマン予想」については、以前、「シン・リーマン予想」というタイトルでエントリーしてあるので、詳しい解説はそちらで読んでほしいが、要するにリーマン予想を強めた予想のことである。リーマン予想とは、「ゼータ関数の虚の零点の実部がすべて1/2」という未解決の予想であるが、「深リーマン予想」とは、「実部が1/2の複素数オイラー積が条件収束する」という予想である。「深リーマン予想」⇒「リーマン予想」ということが証明されている、つまり、「深リーマン予想」が証明できれば、それから「リーマン予想」が正しいことが示されることから、「深」と冠付けられているのだ。(ぼくは庵野監督にならって、シン、とすることを提案している。笑)。

小山先生のyoutubeのレクチャー「チェビシェフの偏り」の解明と一般化では、「深リーマン予想」が正しいとすれば、「チェビシェフの偏り」が数学的に証明できることを説明している。そして、その説明はめちゃくちゃ明快である。「チェビシェフの偏り」とは、4で割った余りの例で言うなら、「余り3の素数と余り1の素数は、無限まで見れば同数だが、順序的には余り3のほうが相対的に早く出てくる」と解釈できる。そしてそれは、なんということか、「ディリクレのL関数のオイラー積が、実部1/2の複素数で条件収束する」に帰着させることができるのである。詳しくは動画で学んでほしい。きっと、その明快さに目からうろこになると思う。

「深リーマン予想」から「チェビシェフの偏り」が証明でき、しかも、「チェビシェフの偏り」が数値計算からかなり正しい手応えがある、ということは、「深リーマン予想」が正しいという傍証となる。したがって、今回の小山先生と共著者との結果によって、「深リーマン予想」の信憑性が高まったということができるだろう。また、このような研究の仕方は、数学研究の良い模範になるに違いない。

 

 

 

 

酔いどれ日記10

 今は、イヴに飲んだボーヌ・ロマネの残りを飲み干し、サン・ジョセフの赤ワインを飲んでる。

 中高生の頃、クリスマス・イヴの夜にはディケンズクリスマス・キャロルを読むのを習慣にしていた。いろいろな出版社の文庫で、異なる訳本が出版されていたので、毎年違う訳者の訳本で読んだのだった。

 『クリスマス・キャロル』はすごく好きな物語だった。クリスマスに従業員を働かせる守銭奴の主人公スクルージを、死んだ共同経営者のマーレイの幽霊があの手この手でこらしめて、スクルージがそれに諭されて改心する話だ。こんなすばらしい話はない。

 むかし、アルバイト先の塾の社長が、イヴの夜に講義を設定しようとしたとき、同僚の大学生が「イヴの夜に仕事をさせられるなら、ぼくは今すぐに退職します」と言ってのけて、ぼくは心の中で喝采を送ったものだった。

 大学生になってからは、イヴの夜には友達とパーティをするようになり、本を読む習慣はなくなってしまった。それはそれで楽しいイヴの過ごし方だけど、読書のイヴも今となっては思い出深い。

 高校3年だったか浪人生のときだったか忘れたが、『クリスマス・キャロル』の手に入る訳書をすべて読み尽くしてしまっていたため、やむなく別の本を読んだことがあった。ヴェルコール『海の沈黙』岩波新書だった。なぜ、この本を買ったのかよく覚えていない。尊敬していた高校の現国の先生2人のうちのどちらかに勧められたのか、あるいは左翼系の友人が読んでたからかもしれない。

 このことを思い出したので、昨夜(イヴ)の読書はヴェルコール『海の沈黙』にしてみた。ものすごく久々、40年ぶりくらいの再読だった

 この小説は、フランスの抵抗文学のひとつだ。時は1941年、ナチス占領下のフランスの話。ドイツ軍の将校が、占領しているフランス家庭に寝泊まりするようになる。その家には、主人公の老人と姪が暮らしている。ドイツ将校は、二人にいろいろなことを語りかけるが、主人公と姪は、一切返事をしない。一言も話かけない。将校をあたかも幽霊のように扱う。それは、自国を蹂躙するドイツへの頑な抵抗の所業だった。

 したがって、物語は、将校の独り言で進んでいく。主人公たちの気持ちは、主人公の独白で読者に伝えられる。将校は、自国での職業は作曲家であり、あらゆる芸術に造詣が深い。だから、蕩々とフランス文化への尊敬を語り続ける。バルザックボードレールプルーストの名をあげる。しかし、主人公と姪は、一切、反応をしない。

将校は、このナチスの占領が、ドイツとフランスの「幸せな結婚」を意味すると根拠ない妄想を抱いていた。しかし、あるきっかけから、そうではなく、ナチス・ドイツのフランスへの単なる蹂躙であるという現実を思い知ることになる。単なる野蛮な所業だということに衝撃を受ける。

 ぼくが10代でこの小説を読んだときは、主人公たちが最後まで抵抗し、一言も言葉を発せず、将校が前線に志願して、彼らのもとから去るときに初めて、「ご機嫌よう」と一言だけ言うのだと記憶していた。しかし、今回読んでみて、そうでないことがわかった。

と言うか、今回読んでみて、主人公と姪のいろいろな心の葛藤が描かれていることに気がついた。ドイツ将校に対して、実に複雑な心理変化を描いていることがわかったのだ。とりわけ、姪と将校に特殊な関係性が育まれていく様子がきめ細やかに描写されていたのである。当時は素朴な少年であったぼくには、「沈黙=抵抗」としか読めていなかったのだ。やはり、小説というのは、単純な「論理構成物」ではなく、もっと深みのあるものだと再認識することになった。

 何歳になっても、クリスマス・イヴは特別な夜だ。これは死ぬまで続くことになるに違いない。これからのイブが、どんな夜になるのか、それがとても楽しみではある。来年のイヴは何を読んでいるだろうか。

 

 

 

 

酔いどれ日記9

今日は、赤ワインのロッソ・ディ・モンタルチーノを飲んでる。ぶどうはサンジョヴェーゼ。イタリアワインのぶどう品種では、ぼくはサンジョヴェーゼが一番好きだ。

 さっきまでゼミ生とスタジオで録画撮りをしていた。今年もゼミライブをライブハウスで実施することができず、結局、動画制作をすることになった。ゼミ生たちの就活の都合もあるので、たった2回のスタジオ入りで撮影せざるを得なかった。まあ、それでも、伝統イベントを繋いだ、ということで一安心。

 今夜の日記では、昨夜に観た原一男監督のドキュメンタリー『全身小説家について書こうと思う。

 この映画は、小説家・井上光晴の晩年5年間を撮影したドキュメンタリー映画だ。井上光晴は、左翼系の小説家で、数々の優れた小説を書いた。映画は、井上の交友関係、講演会、小説作成教室、読書会などを取材して編集したもの。途中に、彼の幼少期の記憶を再現したイメージ映像を差し挟んでいる。

 親しい作家仲間として、埴谷雄高野間宏瀬戸内寂聴が出演している。井上光晴は若い頃にいくつか読んだ作家だが、本人の実像はけっこう意外だった。豪傑で、エネルギッシュで、多弁な男だった。一方で、埴谷雄高は物腰が柔らかく、知的で、冷静な人だった。これも意外な人物像だった。

 井上が小説の修行中の人たちを指導するシーンや、雑誌に掲載されている他人の作品を品評するシーンがあり、井上の小説観や作法が垣間見られて興味深い。前に酔いどれ日記4で書いたように、小説というのは単に感性やセンスで書くものではなく(もちろん、それらも必要だが)、緻密な計算で書くものだ、ということを再認識させてくれる。

 井上が語る井上の少年期を、イメージ映像として投入したのは、ドキュメンタリー映像としては珍しいことだが、後半になるに従って、その理由がわかってくる。これも見所の一つだ。

このイメージ映像は、(たしか)、劇団・燐光群の役者さんたちが演じていてびっくりした。燐光群は、20年ぐらい前に何度も観た劇団だ。劇作家の坂手洋二が社会派の、それでいて前衛的で、かつ芸術的な舞台を生み出す劇団だ。とても奇遇に思った。

 ドキュメンタリーの中で、たくさんの女性が、いかに井上光晴が魅力的な男で、自分がどんなに恋愛感情を抱いたかを語っている。要するに彼はモテ男なのである。それでちょっと思い出されることがあった。

 映画を観始めてすぐに感じたのは、井上の方言が「どこかで聞いたイントネーション」と思ったことだった。井上の故郷が長崎県佐世保とわかって、記憶が像を結んだ。昔に、このイントネーションそのままの男性を一人知っていたのだ。それは、数教協(数学教育協議会)のXさんだった。

 数教協とは、数学の教え方を相互に学び合う先生方の非公的な団体だ。小学校の先生から大学の先生まで幅広い学校の先生方が手弁当数学教育の議論をする。創始者は数学者・遠山啓先生である。遠山の数学教育や思想については、拙著『数学でつまずくのはなぜか』講談社現代新書『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫で読んでほしい。ぼくは、数学教育にも、抽象数学の理論や哲学が必要であることを遠山から学び、実践している(つもり)。

ぼくは30代前半の一時期、数教協の海外研修に3回ほど参加した。それは、ヨーロッパの学校見学をメインに、ついでに観光をする旅行だった。その旅行でいつも一緒だったのがX先生だった。X先生は佐賀県の小学校の先生だった。豪傑ながら優しさもあり、進歩的ながら旧態依然とした男尊女卑の雰囲気も備えている人だった。そのXさんのイントネーションや話し方が井上光晴のものとほとんど同じだったのだ。

面白いことに、Xさんも女性にすごくモテる人だった。Xさんを慕って、九州地区からたくさんの女性の先生が研修旅行に参加しており、みんながXさんをハートマークな目線で見ることに驚かされた。偏見かもしれないが、九州の男と女の間には、ぼくには及びもつかない「暗号性言語」があるのかもしれない、と思ったものだった。『全身小説家』で女性たちが語る井上への恋情も、そういう「暗号性言語」のなせる技だったのかもしれない。

 ぼくが井上光晴の小説を初めて読んだのは高校生のときだったと思う。たぶん、国語の先生(酔いどれ日記2でのO先生)の推薦だったと思う。そのときに読んだのは、『地の群れ』だった。これは(記憶では)、被爆者、被差別部落民、在日朝鮮人という虐げられた人たちがいがみあう、という、とてもいたたまれない小説だった。「なんで、どういうつもりで、こういう小説を書くんだろうか」と思ったものだった。高校卒業後に、『ガタルカナル戦詩集』を(たぶん)読んだ。『他国の死』は長い間本棚にあったが読んだ記憶がない。今の本棚にはないから、たぶん読まずに捨てたのだろうと思う。井上光晴がどういうことを描きたいのかは理解できたつもりだし、優れた作品なんだろうともわかったけれど、どうしても小説として好きになれなかった。

埴谷雄高も左翼系の作家で、高校生のとき、左翼かぶれの友人が心酔していた。ちょうど、大作『死霊』が刊行された頃で、ぼくも購入したが結局は読まずじまいで、今の本棚にはなくなっている。友人が「死霊はシレイと読むんだぞ」と自慢げに語っていたのを今でも覚えている。今、ネットで調べたら、その後も『死霊』は書き続けられたらしい。それは知らなかった。ときどき行くワインバーで、たしか埴谷雄高貴腐ワイン・シャトー・デュケムを飲んでいる写真を観たと思うので、調べてみたのだけど、「貴腐ワイン通」という情報は見つかったがシャトー・デュケムについての記載は発見できなかった。シャトー・デュケムは、ぼくが死ぬほど好きなワインで、高くてほんのときどきにしか飲めないのだけど、死ぬ前に一杯だけ何か飲んでいいと言われたら、間違いなく迷いなくこれを選ぶと思う。

 

 

 

 

 

酔いどれ日記8

今日は、白ワインのシャブリを飲んでいる。すごく冷えているんで喉ごしはいいんだけど、この酸っぱさはやっぱりちょっと苦手だ。

エアロバイクをこぎながらの読書は、村上春樹については一冊読み切ったので一段落し、また数学書に戻った。今日は数理論理学の専門書、田中一之『数の体系と超準モデル』裳華房を再読していた。チューリング・マシンについて復習したいからだ。復習したい理由は別の機会に書く。

この本の、オートマトンの初歩の例の中に、「3の倍数を2進法で表した数だけを受理するオートマトン」というのが出てくる。前に勉強したときは、「ふ~ん」という感じに読み飛ばしたんだけど、今回は気になって証明を考えてみた。(本には証明は書いてない)。通勤の電車の中で考えて、少し時間がかかったけど、うまくできたときはちょっと嬉しかった。わかってみると、非常に巧妙にできたオートマトンだ。(昔のエントリー、オートマトンの食べ方も参照のこと)

 さて今日は、昔に大学祭で観たライブについて書こうと思う。「フォークの神様」と呼ばれた岡林信康さんのライブだ。

このライブを観たのは、入学した年の五月祭だった。記憶では、キャンパスにテントを作り、その中にステージがあったように思う。岡林は、ぼくらより一世代上の人たちが崇拝するシンガーだった。学生運動の象徴とも言える人。反戦歌とか、差別問題を扱った歌とか、革命を願望する歌とかを作った。

 岡林の歌を初めて知ったのは、中学生のときだったと思う(ひょっとすると小学生だったかもしれない)。(どっちにしても)音楽の先生が若い新任の女性で、「友よ」という曲の歌詞をガリ版刷りで配って、生徒たちに歌わせた。そのときには、これが社会変革を求める反体制の歌だとはみじんも思わなかった。(それにしても、なんで彼女はこんな曲を取り上げたんだろうか)

その後、友人の家でレコードを聴かされ、とりわけ、「山谷ブルース」という日雇い労働者の悲哀を描いた歌とか、「手紙」「チューリップのアップリケ」など部落差別を扱った歌を知って衝撃を受けた。

 でも、五月祭のときのライブで岡林が歌ったのは、「転向後」の曲ばかりだった。彼はあるとき、シンガー生活を投げ出して、「下痢を治しに行ってきます」という書き置きを残して、山にこもり、農業をすることになった。しばらくして、復帰し、アルバムを作ったが、人が変わったように昔の面影はなかった。演歌にシンパシーを持ったみたいだった。だから、五月祭のライブでは、彼は、反体制の歌も、革命の歌も、一切歌わなかった。

 岡林の曲で、一番歌詞がすごいと思ったのは、初期の曲「私たちの望むものは」だった。この曲は、「私たちの望むものは~ではなく、私たちの望むものは~なのだ」と「~」のところを入れ替えながら繰り返される歌詞である。例えば、「私たちの望むものは生きる苦しみではなく、私たちの望むものは生きる喜びなのだ」から始まり、「私たちの望むものは社会のための私たちではなく、私たちの望むものは私たちのための社会なのだ」と続き、「私たちの望むものはあなたを殺すことではなく、私たちの望むものはあなたと生きることなのだ」と展開していく。そして、鳥肌が立つのは、後半、歌詞が逆転していくところだ。どきっとなる歌詞だ。

 面白いことに、(そう言っていいかどうかわからないんだけど)、アルバムのサポートバンドをやったのは、デビューしたての「ハッピーエンド」だった。ハッピーエンドは、細野晴臣大瀧詠一松本隆鈴木茂から成るすごいバンドだ。後に、日本のロックの一時代を作り上げたと言っていい人たちである。はっきり言ってしまえば、岡林よりずっと高い音楽性を備えた人たちだった。そして、(たぶん)、彼らは学生運動とはあまり関わりがない。その彼らが、岡林のサポートをやっていたというのは、なんとも奇妙というか、時代のなせる奇遇というしかないと思う。

 ぼくは、岡林の曲をギターで弾き語りがしたくなり、コード譜付きのスコアを買った。そのスコアには、スコアとして非常に珍しいことに、巻頭に詩が掲載されていた。岡林作の詩ならわかるのだがそうではなかった。

 その巻頭の詩は、芥川龍之介のものだった。ネットで調べたところ、『或阿呆の一生』三十三 「英雄」が出典で、「レーニン」をモチーフにしたものらしい。

 

 

 

 

酔いどれ日記7

今日は、赤ワインを飲んでる。カオール。安いけど、なかなか美味しい。コスパで考えるとかなりいい。

今夜は、大学1年生の頃の一般教養の講義の話を書こうと思う。

一般教養の講義として何を履修したか、今となっては定かな記憶ではないが、東洋史、論理学、法学、近代経済学だったような気がする。どれも、大教室の講義で、どれもあんまり出席しなかった。教室に遅刻していくので、後ろのほうの席しか空いておらず、たいてい最後列に座った。

最後列なので、教員の視界には入らないだろう、ということで、ほとんど推理小説を読んでいた。それも、暇じゃないと読めないような大部の小説だった。四代奇書と呼ばれる推理小説を選んだ。中井英夫『虚無への供物』夢野久作ドグラ・マグラ小栗虫太郎黒死館殺人事件久生十蘭『魔都』だ。

これらの奇書は、浪人して予備校に通ってた頃に知った。予備校で親しくなった人がミステリー狂で、彼から推理雑誌幻影城を教えてもらった。当時の『幻影城』には、泡坂妻夫さん、連城三紀彦さん、竹本健治さんなどがデビューしており、新本格派というか変格派というか、そういうミステリーを知ることになった。彼から聞いて、四代奇書を知ったが、これらはみんな大作なので、浪人時代には封印し、「大学に合格したら読もう」と誓ったのだった。

だから、大学に入学して晴れて読み始めた。一般教養の講義の最後列で。

『虚無への供物』は、衝撃の超傑作だった。もう、講義が耳には入らないほどにのめりこんでしまい、帰宅してから一気に読んで、涙を流し、翌日は大学に行かなかった。翌日だけじゃなく、数日休んだかもしれない。

ハウ・ダニエットとしてもフー・ダニエットとしても優れているが、驚天動地なのは、ホワイ・ダニエットとしての推理小説だということだ。古今東西、こんな「動機」を考えついた推理作家がいただろうか。ここに来て、「虚無への供物」というタイトルの深い意味が飲み込めて感涙になる。

テレビドラマ『虚無への供物』も一応観たのだけど、深津絵里さんが主役をやっていてなかなかだったんだけど、ドラマ自体は原作を体現できてはいなかったと思う。まあ、やろうとしただけで立派だったとは言えるが。

調子にのって次に読んだのは、ドグラ・マグラだった。これもとんでもない小説であり、推理小説と呼べるのかどうかもわからない。この小説の真骨頂はやはり、「小説中小説」という仕掛けによって、「無限」を創出していることだろう。この点については、拙著『無限を読みとく数学入門』角川ソフィア文庫で、ホルヘ・ルイス・ボルヘスアレフとともに論じているので、是非、読んでほしい。ボルヘスは、数学的な小説を多く書いた、というか、どの小説も数学的であることで有名な作家である。

黒死館殺人事件は、本当に物語の内容がわからなかった。講義中に読んでるから集中できなくてわからないのか?と思って、講義を休んで家で読んでみたが、相変わらず、さっぱりわからなかった。一文一文は意味が通るのだが、つなげると何を言っているのかさっぱりわからない。でも、それでも非常に魅力的で、結局、最後まで読んでしまった。小説の中では「意外な犯人」と主張されているのだが、何が意外なのか、理解できなかった。とは言え、この小説には悪魔的な魅力があり、四冊のうち、今もう一度読むとしたら、この黒死館殺人事件だろうと思う。いつか、再チャレンジするつもり。

『魔都』を最後に読んだのだけど、講談調の語り口調で、最も読みやすく、最もわかりやすく、ものすごく上手な小説であるが、四冊の中では最もインパクトが薄かった。

 一般教養の講義で最も思い出深かったのは、東洋史だった。左翼系の東洋史家の先生で、話がすごく巧かった。余談も多く、興味深い内容だった。ひとつ覚えているのは、「革命前の中国がいかに貧富の差がひどかったか」という話だった。庶民にとって塩が稀少財だったため、鍋のスープを全部飲まず、乾かして塩を抽出して再利用している一方、王は、好きな時間に命じて、好きな料理をいくらでも即座に作らせることができたという。「そんな貧富の差があれば革命が起きるのは当然だ」と先生は断じた。

ところが、何回か休んでいるうちに、なぜか途中で教室変更になり、久しぶりに行ったら教室はがらんどうだった。トンチキなぼくは、変更先の教室を発見するすべがなく、結局そのあと一度も出席しなかった。

 期末テストになったとき、ほとんど諦念の気持ちで教室に入った。驚いたことに教室には先生の姿はなく、すべての席に問題用紙が一枚ずつ置かれていた。空いている席について、問題文を見ると、「あなたとアジアについて、その関わりについて書きなさい」とだけあった。問題文を読んでぼくは「どうしたものか」と思案に暮れた。「あなたとアジア」というテーマに、ある種の書くべき指針を先生は講義中に示したのかもしれない。だとすれば、休み続けたぼくには何も書けない。どうしよう。

でもぼくは、どうせ受験に来たのだから、ダメ元で何か書いて行こうと考えた。

 ぼくとアジアの関わり??ぼくは回顧をめぐらせた。正直に書くとすれば、それは在日の人々との関係になるだろう。ぼくが少年時代を過ごした地域には、在日韓国人の人々や在日北朝鮮の人々がかなりいた。だから、友達にも少なくなかったし、睨みをきかせて敵対してくる近所の子供もいた。ぼくにとって、在日の人々は日常的な存在であり、子供ながらに何かを感じざるを得ない存在でもあった。

ぼくは、解答用紙に、そんな前置きを書いた上で、丸山薫の詩を引用することにした。その題名も「朝鮮」という名の詩だった。

それはこんな詩だ。姫が魔物に追われて逃げている。彼女が逃げながら、櫛を投げるとそれが山になって魔物を遮る。魔物は乗り越えて追ってくるので、今度は巾着を投げる。巾着は池に変わり、魔物の邪魔をする。けれど魔物は苦も無く乗り越える。それで、姫は靴を投げる。こんなふうに姫は身につけているものを次々に投げていく。ぼくは、この姫の姿が朝鮮の姿だ、と答案に書いた。

ぼくは書きたいことを正面から書いたけれど、単位を取るのは諦めていた。でも、意外にも、合格して単位をいただいた。しかも、最優秀のAという成績だった。なんとも言えずこそばゆい気持ちになった。

もちろん、その先生がどの答案も読まず、全員にAを付けた可能性も否めない。なぜなら、翌年にその講義をとった友人が、「`仏'だと聞いたから履修したのに、たくさんのD(不合格、学生はドラと呼んでいた)を出し、撃墜された」と言ってたからだ。その年は定年で退官する最後の年だったから、置き土産のつもりだったのだろう。とすれば、単にぼくにはツキがあっただけなのかもしれない。

 

 

 

 

酔いどれ日記6

 今日は残っていたリースリングを1杯飲んで、赤にシフト。ボーヌロマネ2018。勤務先の近くのワインショップが1割引き券をくれたので、思い切って買った。懇意にしてる店員さんのお勧めなのもあって。ぼくにはワインの知識も自信もほとんどないので、基本的に信頼できる店員さんの勧めてくれるものを購入する。行くたびに、このあいだのは美味しかった、とか、コスパは良かったね、とか、すっぱかった、とか匂いが良かったとか伝え続けると、自然とぼくの好みを把握して勧めてくれるようになってくれる。決して、高いワインを売りつけようとはせず、いろんな価格帯のワインを紹介してくれるから信用できる。

 今は、TK from 凜として時雨のブルーレイをかけながらこれを書いてる。あるときから、男の歌声をうけつけなくなったぼくの体だけど、TKだけはなぜか聴くことができる。

 今夜は、また、村上春樹の小説のことを書こう。

『女のいない男たち』文藝春秋を、3編読み進めた。エアロバイクをこぎながら、一日に一編ずつ読んでいる。『独立器官』『シュエラザード』『木野』の三編を読んだ。

みんな面白いけど、三編を競わせて軍配をあげるなら、やはり、『木野』だな。春樹さんらしい幻想小説だから。

 『独立器官』は、主人公が親しくなる整形外科の開業医の話。いわゆるドン・ファン的な男で、女には(というかセックスには)不自由せず、患者の女性たちとの情事を楽しんでいる。女性たちは独身もいるし、既婚者もいる。その開業医が結局は破滅する物語。それはいい年をして、生まれて初めて恋に落ちてしまうからなんだよね。それもひどくつまらない女に。この小説も非常に緻密に構成されているんだけど、ぼくにはちょっと物足りなさがあった。まあ、これも年の功で、そういう「高齢でかかる麻疹」みたいなのをよく見てきたから。「思い入れだけの恋愛」とか「相手に幻想をかぶせる恋愛」とかは、中高生のうちに済ませておかないといけないんだ。大人になってからだと重症化する。そういう人を身近に数人目撃した。はたで見てると、「ばかなんじゃないの」とさえ思うんだけど、本人は深刻なんだ。そういう麻疹はぼくは中高生で済ませた(酔いどれ日記1参照)

『シュエラザード』は、変な癖(もちろんやばい悪癖)を持った女の話。非常にありそうな話で感心した。その悪癖は、かなり荒唐無稽なんだけど、実話のように書かれている(いや、どっかで聞いた実話なのかもしれないけど)。主人公の男の正体も、悪癖女の素性も最後までぜんぜん判明しないんだけど、それがまた、物語に深みを与えている。

『木野』は、妻の浮気が発覚して退職してバーを始めた男の話。木野は、その主人公の名前だ。前半は、そのバーで起きるできごとが淡々と描写される。店の片隅でウイスキーの水割りを飲みながら本を読む常連客の神田が、大きな伏線となっている。後半は、どんどん幻想的になっていく。最後は、春樹流が炸裂する。物語はどんどん発散していく。

この短編『木野』のテーマを一言で言うのは難しいけど、村上春樹がずっとテーマとしてきている「禍々しいもの」がその一部だろう。あともうひとつ、「正しい選択とは何か」という問題。そういう意味では、初期の短編に通じるものがある。『パン屋再襲撃とか『品川猿』とか『めくらやなぎ、と眠る女』とか。この三編にぼくが何を見ているか、というのは『数学で考える』青土社あるいは『数学的思考の技術』ベスト新書に収録している『暗闇の幾何学で論じているので、それで読んでほしい。この評論は、もともとは、文芸誌『文学界』に寄稿したものだ。このようにぼくの中での村上春樹は一貫したテーマを拡張しながら繰り返し物語にしてる。

 村上春樹とぼくが共有している、と思われるのは(勝手に思っているだけなんだけど)、「地下鉄サリン事件とは何だったのか」ということだ。村上春樹は、この事件を追って、アンダーグラウンド『約束された場所で』というインタビュー集を作った。前者は地下鉄サリン事件の被害者になった人々に、後者はオウム真理教の信者にインタビューしたものだ。ぼくにとって衝撃だったのは、後者だった。オウム真理教の信者たちはインタビューの中で、自分たちの信教(あるいは信念)が絶対に正しいという立場を表明している。そして、それを理解しない一般人(あるいは教徒以外の人々)は単なる低脳人間なんだ、と見下している。しかし、彼らがよりどころにしている麻原彰晃(あるいは松本智津夫)の教義(あるいは理論)は、ぼくら読者には(普通の人間には)さっぱり理解できない。でも彼らは自信満々だ。

ここで立ち塞がるのは「正しさとは何か」ということだ。こう言い換えてもいい、「自分とオウム信者はどこが違うのか」。たしかに、彼らは地下鉄でサリンをまいて人殺しをした。ぼくらはそんなことはしない。でも、だからぼくらは正しいのだろうか?ぼくらは彼らと同じような人殺しをずっとしない保証があるんだろうか。村上春樹も同じ難問を抱えた気がするんだ。「悪とは何か」「正しいとは何か」。これを「社会の内部にいるぼくらが、あたかも外側からするように判断するすべはあるのか?」。それができないなら、ぼくらとサリン事件実行犯たちとを区別することができない。「わたしはわたしがそうでないことを知っている」というのが答えにならないのは言うまでもない。

もちろん、「外側からの回答」は原理的に不可能、絶望的に不可能なのかもしれない、とは思う。でも、だからと言って、逃げてはいけない問いであるとも思うんだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

酔いどれ日記5

 今日はリースリングを2杯目。Zind-Humbrechtとかいうやつ。リースリングにしてはすっきりしている。

 昨日は、キングクリムゾンのライブを渋谷オーチャードホールで観てきた。

ぼくは、新型コロナが起きてから、「もうライブには行くまい」と決めたんだった。だから、今年から5限に講義を入れた。しかし、クリムゾンの来日で決意はもろくも崩れ去ってしまった。

 もう最終公演も終わったので、多少のセトリの話をしても邪魔にはならないだろう。今回のライブは、名曲オンパレードという感じで、「みんな、これが聴きたいんでしょ」という曲の連発だった。前回の来日では、「リザード組曲」を全編演ったり、「船乗りの話」をやったり、マイナーだけどマニアックでかっこいい曲を演奏してくれたけど、今回は本当に代表曲の嵐だった。ファンとしてどちらも嬉しいものだ。

 今回、一番聴き応えがあったのは、「ディシプリン」だった。ギタボの若いプレーヤーがギターの腕をあげたので、「ディシプリン」のずれていくミニマル音楽が非常に綺麗に再現された。とりわけ、トリプル・ドラムと合わさるポリリズムがあまりにかっこよく美しく演奏された。1981年に「ディシプリン」を発表したとき、ボブ・フリップの脳裏には、こういうトリプル・ドラムのリズムが鳴っていたのだろうな、と思うと、とてつもない音感だな、と思う。

 ぼくがクリムゾンのライブに行くのは、ボブ・フリップに会うためだ。もちろん、クリムゾンの音楽はいつ聴いても楽しいが、フリップ卿に会って、自分の座標を確かめるというのが大事なことなのだ。フリップが逝くのが先かぼくが逝くのが先か、否、フリップを見送ってからぼくも逝く、という覚悟。そういう気持ちがぼくの内面に厳然とある。

 ぼくがキング・クリムゾンの音楽と出会ったのは13歳と14歳の間のどこかだったと思う。13歳のぼくは友達の影響で、グランド・ファンク・レイルロードの「孤独の叫び」を買った。ぼくが買った初めてのロックのシングル・レコードだった。それからヒットチャートを聴くようになり、当時ヒットしていたELP(エマーソン・レイク・アンド・パーマー)の「ナットロッカー(くるみ割り人形のこと)」が好きになった。それで、ELPの「トリロジー」というアルバムを買った。これがぼくが初めて買ったアルバムだった。ELPグレッグ・レイクに惹かれるあまり、ELPを結成する前にレイクが所属していたキング・クリムゾンに興味を持った。偶然、友人のお兄さん(高校生)が、クリムゾンのライブアルバム「アース・バウンド」を持っていて、それをカセットテープに録音させてもらい、収録されている「21世紀のスキッサイドマン」とか「船乗りの歌」にぞっこんになってしまった。それで、お金をためて、クリムゾンのデビューアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」を買ったんだ。最初は、「アース・バウンド」における「21世紀のスキッサイドマン」と演奏の違いに戸惑ったが、すぐに大好きなアルバムになった。「エピタフ」や「ムーンチャイルド」なども名曲だったからだ。

 それから、結局、活動休止までの7枚のアルバムを全部聴くことになった。すべてのアルバムがすばらしかった。

休止後は、フリップとブライアン・イーノの共作である「ノー・プッシーフッティング」とか、フリッパートロニクスのアルバム「レット・ザ・パワー・フォール」とかソロアルバムの「エクスポージャー」とか、パンクアルバム「リーグ・オブ・ジェントルメン」とか聴きながら、クリムゾンの活動再開を待っていた。

そして、1981年、待ちに待った新クリムゾンのアルバム「ディシプリン」が発表され、しかも!来日公演が行われたんだ。浅草で4日連続で公演を観た。本当に涙にむせんだ毎日だった。その日々のことは以前、こんなふうに書いた(もとはこれ)。

ぼくは、連続4日のクリムゾンのライブに行った。ライブはすばらしいものだった。アルバム「ディシプリン」と「ビート」の真ん中の期間で、名曲「ニール・アンド・ジャック・アンド・ミー」の初期バージョンの演奏がされ、もう涙がむせんだ。ぼくらは、ライブの前に浅草「藪そば」で酒を飲み、終わったあとは「神谷バー」で黒ビールと電気ブランを飲んだ4日間だった。

ああ、この頃も飲んでたね。笑。

フリップは、前から兆候はあったものの、このアルバム「ディシプリン」から、スティーブ・ライヒ流のミニマル・ミュージックに傾倒することになった。表題曲「ディシプリン」はギター2本がリフをユニゾンから徐々にずらしていく曲。高校生だったとき、友人が耳コピして、二人でアコギ2本でチャレンジした。1音ずつずれていくときは気持ちいいのだけど、相手のアルペジオに巻き込まれるともう終わり。大失敗となる。十数回のチャレンジで完璧に出来たときはものすごく嬉しかったものだ。ちなみに、日本のバンドで現在、この方法論を実践しているのは、Tricotだと思う(他にもいるのかもしれないけど)。

 ぼくは13歳か14歳からもう50年もクリムゾンを聴いている。これはすごいことだと思う。そんなバンドは他にはいない。「人生のバンド」とはまさにこのことだ。ぼくの人生の大部分は、クリムゾンとともにある。こんな奇跡的なことがほかにあるだろうか。